音楽について今日も書く…。
バッハが対位法で書いた作品は、そのパートの数だけ登場人物が出てくる。…どの音楽でもそうではないか?パートの数だけの登場人物が居るのではないか?その通りである。ここでいう登場人物とは、それぞれが性格の違う個性を持ったもの、という意味である。
フーガなどにおいて、それぞれが最初の主題を順々に読み上げるが、徐々にその内容は個々の主張に分かれていき、ある時は共感し合い、また違うところでは反論したりする。そして一定量の会話を交わし全員で結論に向かう。
ではモーツァルトではどうであろうか?ロココは、数学からより文学に寄ってきた感じがする。何人かの主役、脇役とそれに付随する群集、といった感じだろうか?おいらのような不勉強な者が偉そうにモーツァルトを分析するのもおこがましいが、彼の音楽にはよりはっきりとした物語が存在すると思う。
バッハは数学、モーツァルトは文学なのである。だからモーツァルトを解り易くするためには、彼のオペラを勉強する事が近道なのではないだろうか?
最後期に位置するオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」。あとには「魔笛」「皇帝ティトの慈悲」があるが、ダ・ポンテと組んだこの作品はやはり格別のものがあるように思う。…といいつつも、おいらは「魔笛」「ティト」については観ただけでほとんど不勉強なので、いい加減な評価であることは否めないが。
格別なもの…とは何か?あくまでおいらにとってではあるが、例えば、2幕3場(※おいらのブログを通じて細かい表記は避けたい。間違えがあっても多少は読み手の優しさでカヴァーして欲しい。偉そうなことを書いていても、論文ではなく独り事なのだから。)のフィオリディリージとフェランドの2重唱。浮気な気持を強引な決意で断ち切ろうとする彼女の歌は明るい。テンポも落ち着き、ベースが彼女の心拍を長調で刻んでいく。しかしそこにフェランドの登場、ベースの鼓動は短調の、彼女の動悸に変わり、彼女は否応なしに旋律線を変えざるを得ない。自分自身を一度は説得しようとしたほどだ、力を振り絞って彼を拒もうとする。しかし、フェランドの言葉を拒みながらも、旋律は彼に従っていく。下品な言い方だが、「上の口は拒んでも…」である。まさにそこがテーマのオペラである訳だ。
フェランドが流れを一旦制し、美しい3拍子のラヴコールを送る。…とてもとても美しい。しかし、おいらが最も美しいと思うこの旋律は真実なのか、あるいはやはり巧妙な芝居なのか?これは本人にしか判らないだろう。本人も判らないかも知れない。
そして、フィオはフェランドを受け入れる。受け入れた彼女は高揚し、繰り返す旋律は16分音符で小刻みに震えてしまう。もちろんフェランドも同じである。起承転結の「結」に向かう直前の山場が最高のクライマックスを迎える。
話が大きく脱線したようだが、こちらは大したクライマックスを用意できないまま、「結」に向かおう。
つまり、フィオリディリージ、フェランドは固有の人物なのは当然なのだが、オーケストラもそれぞれのパートが、ある箇所では、伴奏、別の箇所では心理表現、それぞれのパートが各々の役目をこなす。そんな事が見えてくると、モーツァルトを演奏するのが楽しく、また空恐ろしくなっていくのではないか?
バッハの哲学を分析することも、天才の無言劇を考察するのも大変だが面白い。明確な答えは存在しないが、それを促すヒントを両人とも数多く残して行ってくれた。さぁ、もっともっと音楽を学んで行こう。
- 2007/08/07(火) 23:46:24|
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久し振りに、昔買って最近トンと聴かなくなったCDを出して聴くか…、と。そうなると勿論選ぶのはクラシックになるのだが、今日の1枚は「ストラヴィンスキー:ディヴェルティメント 他/リッカルド・シャイー&ロンドン・シンフォニエッタ」。マイナーな曲ばかりだ…。買った経緯も「クラリネット・ソロのための3つの小品」が入っていたからだ。
表題曲、ファンファーレ、組曲1&2、オクテット、ストラヴィンスキー好きか精力的な室内オーケストラしか知らないのでは…?と思ってしまう。しかし「春の祭典」などに比べるとかなり聴き手に負担が少ないかわいらしい曲群である。演奏者も自分の実力を発揮しつつアンサンブルを楽しめるのではないだろうか?
…しかし、しかしである。これらの曲たちの存在の意味はなんなのだろうか?バレエ3部作や「プルチネッラ」に比べると圧倒的に再演の機会は少ないことだろう。しかし、同じマエストロ・ストラヴィンスキーの作品で、その作品を聴かないと味わえない面白さと緊張を持ち合わせている。
これらのマイナー群はいろいろな悩みを抱える。まず興行として成立しにくい。客を集める曲たちではないのだ。そうなると演奏の機会が圧倒的に少なくなる。そしてマニアックな作品としての烙印を押されていく。悪循環である。
「のだめカンタービレ」の存在を諸手で賛成はしないが、個人としては大好きな作家の面白い作品だと思って愛読している。クラシック業界で感謝している人物もそれなりに存在しているのではないだろうか?しかし、音楽とはとどのつまり芸術であって、やはり学んだ先に更なる喜びのあるものだと思っている。「のだめ」をキッカケにクラシックに触れら人達は増えただろうが、そこから先を学び始めた人達はどの程度存在するのだろう?
いつかこれらの作品群がキチンと客に提供される方法が見つかると嬉しい。ピカソの「ゲルニカ」のみではなく初期・中期の素晴らしい作品を観るように、ストラヴィンスキーという巨人が残した作品たちも、メジャーワークスだけではなく、小さな愛くるしい作品たちも、数多くの人々に触れてもらいたいものだ。
そんな事を思いながら、マエストロ・シャイーと仲間たちの愉快な演奏を聴いた。
- 2007/08/06(月) 21:52:18|
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あんまり個人を特定するような事柄を書くと周りに迷惑をかける事もありそうで、控えめにしておく事も必要であろう。
夏の、それなりに認知度のあるクラシックの音楽祭にスタッフとして参加した。4年振りのことだった。
あまり暴露話なんかはするつもりもないので、今回参加して感じた事を漠然と書いておこうと思う。
参加したアカデミーの技術力は高かったように思う。しかし最後まで彼らの演奏からは、演奏しか聞こえず、音楽を聴く事は出来なかった。おいらは音楽大学を出ているので、クラシックがどういうものか、ある程度の物差しを自分の中に持っているつもりである。裏方としても20年近く海外のオーケストラの来日公演に立会い聴いてきた。別に有名な名門オーケストラが必ずしもいつも素晴らしいとは感じない。しかし、流石一流、一発の音で魅了されることもある。
常に知っている曲を聴くわけでもなく、しかし自分の中にある音楽を参考にしながら聴く事に集中する。
…今年のアカデミーを聴いていてただ感じるのは、楽譜を音に変える作業は出来ても、どんな音楽に作り上げたいか、イメージが伝わってこない。…空っぽなのか?とすら感じる時がある。
おいらは自分のやっていた楽器のお陰で他の楽器についても勉強する
機会があった。別に自分の楽器の師匠たちが最も尊敬する存在とも思わなくなった。素晴らしい音楽を生み出す音楽家は自分の楽器を最強の手段として使いこなす。アコーディオン、リコーダー、テューバ…様々な一種特殊な楽器からでも素晴らしい音楽を与えてくれる。
音楽を聴きたい、と常に思っている。その人物がその音楽/楽譜をどう形にするのか…?
結局、音楽とは技術自慢ではなく、自分が学び経験してきた様々な要素を充分に安定した技術を利用して表現することではないだろうか?
アカデミー諸君はいったいどんな本を読み、どんな音楽を聴き、どんなオペラ、演劇を観てきたのだろうか?バーンスタインの著書やクライバーの公開リハーサルのDVD、ヴェルディやプッチーニのオペラ…クラシックの中だけでも、諸君に素晴らしいヒントを与えてくれる素材を先人たちは数多く残してくれたのだ。今の作曲家皆様には申し訳ないが、まず18世紀、19世紀の音楽からキチンと学んでいったらどうだろうか?ストラヴィンスキーの「3つの小品」を吹くこととモーツァルトの「クラリネットとバセットホルンの為の12の二重奏曲」を吹くことは技術の難しさのみで本質を問われるものではない。
技術を手に入れる喜びに惑わされると、音楽の本質には辿りつかない気がする。自分の表現したいものを手に入れる為にどうしても上質な技術が必要となるのである。まずは自分の中に少しでも魅力のある音楽を生み出すことから始めよう。
音楽祭に選ばれたからといって一流の仲間入りではなく、一流の体験の出来るアマチュアになったにしか過ぎないのだから。更なる音楽の勉強はここからやっと始まるのだから。
最後に書き足すが、この音楽祭の前半、かなり日数的に少なかったが、それでも可能な限り自分の音楽を与え続けた真のマエストロ・ムーティの姿に、今も尚幸せを感じている。
- 2007/08/04(土) 15:13:26|
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