日が変わってしまいました。今日から仕事再開…ってこの2日間クビになっただけで、現場は動いてるんですがww。フリーの辛いとことですねw。
その合い間を縫って、今のカンパニーに贈るための絵描き上げました。
時間に追われて描くので、気分が乗るか、上手い方向にいくか、不安が一杯でしたが、自分なりにはある程度納得のいく出来に上がりホッとしています。
観て頂いた方々にどう伝わるかはいつも不安ですが…。
出来たばかりですが、いつもすぐプレゼントしてしまい手元に原画が残ることがほとんどないので、今のうちに写真撮ってアップしますw。
ボールペンのインクが反射してるのが見苦しいですが、これが原画の証し、…って上手い人はそれを外して撮れるんでしょうねww。
題材の方は、今「ドレスデン国立歌劇場」で来日中のファビオ・ルイジ氏。先日お見かけしたら、キレイな銀髪になっておりました。元の写真はおいらが尊敬する写真家、木之下晃氏撮影、1999年の作品です。

- 2007/11/16(金) 01:17:46|
- ボールペン画掲載
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
おはようございます。
松本人志さんと高須光聖さんがやっている「放送室」というラジオ番組が好きです。おいらの7歳上、おいらの兄と同い年なお二人。
昔の話がよく出てくるんですが、なんのテライもなく普通に盛り上がったりします。すごく楽しい。今どきの若者にはチンプンカンプンなんだろーな・・・。
腹立ってることとかも結構放送にのせれる限り話してくれてるのでは、と感じます。
人間が内面で押し殺す苦悩を、代表して・・・ではなく、まるっきり自分の価値観で話して、あわよくば「こうすればええんちゃうのん?」と言うことまで提示してくれます。
高須さんが時として、一般人代表をあえて買って出て、松本さんの提案や問題提示にさし構える事があります。高須さんも松本さんと同じ考えだったりするのだろうに、あえて・・・。
すごく頭いいんです。子供の頃からずっとつきあってきた2人の中でもいまだに駆け引きがあるんです。それは、この誰に聞かすでもないスタンスでやりたいラジオでも、結局聴き手に送るものとして成立させるためにお互い妥協はないんです。松本さんはもう職業としてすごいレベルに達しているから、「ガキの使い」に比べると、すごくユルユルでしゃべっているように感じてしまいそうですが、凡人ではかなり頑張っても出来ないようなことを普通にやってのけます。
多分、若い人にはもう分からない内容が多いんだろうな。でも、それが嬉しくもあるんです。急激な勢いで根拠もなくいろんなもの、いいものも悪いものも使い捨てていくこの現在、おいらは大嫌いなんだけど、もう崩壊するまで止まらない。
このラジオが大人になったおいらに古きよき時代を紹介してくれる。おいらは自分の記憶をこの大人になった心で思い返す事が出来る。経験がないヤツが楽しんだりしたところで、本質は絶対分からない。彼らが語る昭和や尼崎はその頃生きた人たちにしか分からない。彼らの語ってくれる懐かしさはネットには絶対転がっていない。
絵。仕事させていただいたカンパニーへのプレゼント用に描いたものです。ダニエル・バレンボイム氏。今度は「コジ・ファン・トゥッテ」持ってきて下さい。

- 2007/11/01(木) 11:58:28|
- ボールペン画掲載
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
なんと珍しく仕事が早く終わった。その代わり明日の朝が早くなったけど・・・。
相変わらず精神に安らぎは来ないが、だいぶ慣れてきた感はある。
前回の仕事に続き、今回の仕事もここで書くのは控えたいと思うが、今のおいらの生活は全て仕事に支配されているので、他の事を考えるのがなかなか難しい。
最近の精神状態を改めて客観的に考えると、「南Q太」さんの作品にイメージがリンクする。彼女はおいらが好きなマンガ家の一人だが、全体的に「偏った」ものが多いような気もする。
「マンガ」「映画」「歌」・・・、出会いがよくて気に入るとその関連のものをある程度掘り下げてみてみたくなってしまう。彼女の作品とも出会いがよかったのだろう。何作か、「う〜〜ん?」ってものもあったりするが、いまだ新作が出ると必ず手を伸ばす作家さんの内の一人だ。
「夢の温度」。最初に出会った作品。すごくいい作品だ。多分登場人物が自分の意思を持って話が進んでいったんだろうな・・・と思えるくらい、それぞれの人物が個性を持っている。そして、この方の作品には珍しく幸せな要素が多い。エンディング前なんかは、準主役のエピソードで泣いてしまったw。
実は、おいらがリンクする部分は「夢の温度」にはほとんどない(ない上に憧れさえ感じてしまう)のだが、他の作品群ではもう少し描かれてる人物達の年齢層が高く、かなり似たような悩みを抱えたりしていたりする。自己中心的な人物、神経質な人物など、病んだ人物が結構多く描かれ、生活の断片を結末を求めることなく描かれることも多い。
「さよならみどりちゃん」とか、個人的には他にも好きな作品があるが、もしお勧めするなら「夢の温度」、他は読者の好き嫌いで評価が大きく左右されると思う。
「南Q太」先生、またあんなゆるやかな作品描いて下さい。
さて、絵です。今回も以前のものでボールペン画です。
「佐渡裕」さん。すごいエネルギーです。ご本人にオリジナルはお渡ししました。・・・厚かましいwww。

- 2007/10/09(火) 19:31:57|
- ボールペン画掲載
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
さて、なかなか更新する力(と時間)がありませんでした。相変わらず、ウツ気味なのですが、まだなんとかコントロール出来てますw。
・・・ってどうなんでしょう?たまに不安になるんですが、そういう状態になるのって「自分でも認識出来てはいるけどコントロールが出来ない」のか「自分での認識は全然自分勝手なもので、実は相手は『かなりやばい・・・』って感じているのに気付いてない」のか?
こういう事に悩むと、押井守さんの作品を思い出します。押井さんの作品、かなり込み入っていますがやっぱり好きです。多分、半分くらいしか理解してないのかも知れないですけどww。
折角ですから、何作品か紹介しますね。
◆「攻殻機動隊〜GHOST IN THE SHELL」
原作付きの作品、士郎正宗さんのマンガ。いわゆる擬体化と呼ばれるサイボーグ化のようなものが出来るようになった未来のお話。
この映画の問いかけるものは、「自我」「意識」と呼ばれるものは実は実証することが出来ないのではないか?過去の記憶も自分のいいように書き換えている可能性があるし、それが善いことであろうと悪いことであろうとそれを実証することは出来ない。「他人」との接触において「自分」を認識するが、それも実在しているかどうかは確認することは出来ない・・・。そんなパラドックスに追い込む作品です。おいらもそんな事、よく考えたりします。
◆「うる星やつら〜ビューティフル・ドリーマー」
これも原作付き、高橋留美子さんのマンガの映画化。これもよく似た問いかけですが、いわゆる「自分が蝶になった夢を見ているのか、蝶の自分が、これは夢で、自分は本来別のモノで蝶になった夢を見ていると思っているだけなのではないか?」書いてても合ってるかどうか解りませんww。でも、これも「自我」の存在をあるいは否定してしまう問題を投げかけます。
◆「機動警察パトレイバーTHE MOVIE」
これも原作付き、ゆうきまさみさんのマンガの映画化。原作もかなり面白かったです。映画はかなり原作とは違う大人なドラマになっており、その中では、「自分が何気なく信じているこの平和な世界も、一つの大きな衝撃でもろく崩れ、それによって今まで信じ切っていたものが簡単に機能を失うのではないか?」という事を問いかけます。
その他の作品でも、押井さんは自分の哲学の疑問を物語、会話に踏襲します。だからヲタクよりな作品に評価されているような気がしますが、世の中がどんどん無宗教になり、全てを簡潔に便利に変えていこうとする流れの中で、それに一石を投じる、これだけ公明正大に自分の意見、疑問を提示出来ることを尊敬します。「悩み」とは自分の中にあり、それを見つめることが少なからず自己防衛につながるのかも知れません。
ま〜こういう作品を観たお陰で悩んでしまうのかも知れませんが・・・。
個人的な意見ですが、「〜ナウシカ」以降の宮崎駿さんの作品よりもおいらは好きです。勿論、以降の作品も「となりのトトロ」「紅の豚」の2作品は、宮崎さんの趣味の比率が高いので好きですし、別に宮崎さん批判の類で例に出したのでは一切ありません。
たまにはこういう一瞬たりとも見逃せない作品にかじりついて観るってのも面白いですよ〜。
そろそろ絵が尽きてきましたww。もう残り少ないw。また暇を見つけて新しいもの描かないと・・・汗。

- 2007/09/29(土) 22:55:03|
- ボールペン画掲載
-
| トラックバック:1
-
| コメント:0
さて、特に取り繕うこともなく続けていこう。
よく言われることではあるが、「聞く」と「聴く」、「見る」と「観る」の違いを考えることはとても重要なことである。この作品は、聴衆に、その違いに対してある意味強制的に向き合わせようとするのである。
作品の構造はどういうものなのか?おいらは、有難いことに稽古初日に演出家からこの作品の解説を聞く事が出来た。その上でこの作品を拝見することが出来たので有意義だったが、いきなり観た客の皆様はどうだったのだろうか?
このブログを当日観に行った方の誰かが読むことはないと思うが、一応自分なりの解釈を書き記そう。
まず、舞台に記された64のマス。これは一切の設定を持たない、一切関連性のない64の場所。現時点、ここには年代も名前も固有性を持たない。
その上に、ピアノ、照明の操作盤、音響の操作盤、蓄音機、TVが配置される。歌い手2人はマスの外の自分の待機椅子にいる。照明は舞台を照らすことはない。
そこで各々の出演者が各々の作業をこなす。つまり、そのアイテムが置かれたマスが、クジで置かれたもので最初の情報を手に入れる。
その上で行われる事。
歌い手の歌、ラジオ放送、照明の変化、TV放送、ピアノ演奏、蓄音機の再生、それぞれはそれぞれのマスに、時代、時間、場所等を与える。
つまり、1時間の中に割り振られたタイムテーブルは、それぞれを無作為に動かすキッカケだけで、そこに登場するのは、ある時代のピアノ付き稽古のピアノパートだけであったり、ある場所で行われているオペラ公演のアリアの歌だけであったり、現在のTV放送であったり、ある人物が聴いているレコードの音であったりする。時代、場所、人物・・・、いわゆる5W1Hを一旦排除して、一箇所に集め無作為に取り出す、ということをやるわけである。
すごい発想である。「4分33秒」もすごい発想だが、こちらも発想としては十分な効果を持つ。
しかし、おいらは疑問しか残らなかった。これはただの実験であって、決して音楽的なものではない。音楽を実験材料にして切り刻み問題定義しているだけだ。
特に腹立たしかったのは、2人の日本を代表する歌い手に与えられた(強いられた)状況の理不尽さだ。ピアニストも大変だっただろうが、ピアノという楽器はすでにそこに音が用意されていて叩けば音が出る。ピッチは狂いようがない。音楽的コントロールは困難になるが、そんな大層なものにこの作品は興味を示さない。歌はそうはいかない。この作品が「オペラ」という単語を表記に含むため、各歌い手はオペラ・アリアを5曲ずつ用意したのだが、そこには歌以外の味方を持たない。
セットも、あらすじも、性格も、オーケストラもなにも助けてくれるものはいない。他の共演者達は彼女達の音楽の妨害者に豹変する。
彼女達はこの作品のいけにえなのだ。一流の音楽家として、この困難な状況でなんの手がかりも持たず、完璧に歌うことを要求される。
失敗すれば、笑われる、自分に悔やむ。しかし、無事歌えたとしても、そのアリアは伴奏を持たない不完全なものの上、いろいろなノイズに邪魔される、聴衆にはその困難さは伝わらない。ひねくれた解釈かもしれないが、この作品は彼女達が失敗することで生身が生身たる所以を教えようとするのである。両手両足をもぎ取って、「失敗しないようにお願いします。」とあざ笑うのである。しかも一流の歌い手、聴衆がよく認知しているプリマでなければ失敗に価値を持たない。
作品の意義と音楽の本質が矛盾して存在しているのである。
おそらく、おいらより見識の深い方々からすれば、ここに書いた文章は稚拙なのかも知れないが、あくまでおいらの感じた作品の感想である。
各々が答え、あるいはヒントを得れればいいと思う。
この作品に携わった歌い手二人には改めて心より「お疲れ様でした。」と言いたい。
最後に今回学んだことを書き記す。おいらは「音楽」とはバッハの頃から積み重ねられた偉大な学問だと考えている。しかし、この作品は漠然とおいらの全ての知識、感性に問いかけるものだった。もし、演出家の最初の解説がなければ、ここに書いたことは存在しない考えかもしれない。この世に存在する全てのものに触れることは絶対に出来ない。この作品はその事を教え、それでも、それに触れれば何かを感じる事は出来る、と教えてくれているのではないだろうか?
次回再演に携われる機会が巡ってくるなら、仕事としてはもちろん断る理由を持たないが、一、音楽を愛する者としてなら絶対お断りする。
さて、絵を載せる。2005年の「CHICAGO」のカンパニーにプレゼントしたもの。忙しい中大急ぎで描き上げたが、ひさびさに(まさに)自画自賛なものが描けたと思ったことを記憶している。途中でボールペンのインクが切れ、別のものを使い色むらが出たのはショックだったが・・・。


- 2007/09/14(金) 00:47:39|
- ボールペン画掲載
-
| トラックバック:1
-
| コメント:0
次のページ